【新着】「努力できない」と悩んでいた私が、努力する人生の方が楽だと思う理由

「努力できない」と悩んでいた私が、努力する人生の方が楽だと思う理由

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先日、珍しく一日をほぼ自由に使える休日があった。

いつもなら子どもの送り迎えがあるので、「この時間までにジムへ行かないと」と自然に締め切りができる。でも、その日はそれがない。朝から時間はいくらでもあった。

となると、不思議なもので腰が重くなる。

「そろそろジム行くか。でも、だるいな……」

そんなことを考えながらダラダラして、結局いつもよりかなり遅くなってから家を出た。

筋トレを何年も続けている今でも、こんな日は普通にある。習慣になったからといって、いつでも気持ちよく行動できるわけではない。

それでも、その日はジムへ行った。

昔の私は、努力する人生はしんどくて、できるだけ楽に生きる方が幸せなのだと思っていた。

でも、今はむしろ逆だと感じている。

仕事もある。子育てもある。朝早く起きてジムへ行ったり、ブログを書いたりもしている。昔よりやることは増えた。

それでも、生きること自体は以前よりずっと楽になった。

なぜそう思うようになったのか。

振り返ってみると、一発で人生を変えたような出来事があったわけではない。

小さな経験を重ねるうちに、努力に対する見方と、自分自身に対する見方が少しずつ変わっていったのだと思う。

この記事を書いた人

運営者のSOSSUです。

アラフォー会社員です。
Fラン卒→就活失敗→フリーター・ニート期を経て、いまはプライム上場企業でECサイト運営をしています。

朝5時台に起きて、筋トレと副業ブログを約3年継続中。
会社の人間関係お金や将来にビビり散らかしてきた側の人間として、「会社だけに人生を握られないように少しずつ人生の主導権を取り戻す」ための考え方や行動を発信しています。

サイドFIREを目標に日々を積み重ねています。現在世帯資産約2,500万。

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努力できない自分に悩んでいた頃の方が、人生はきつかった

大学を卒業したあと、私はしばらくフリーターをしていた。

当時はローソンで週5日、朝9時から夕方17時くらいまで働いていたので、別に毎日遊んでいたわけではない。バイト先でできた彼女と出かけたりもしていたし、その後は心斎橋にあった就職支援施設にも通っていた。

こうして書いてみると、むしろそこそこ真面目である。

それでも、あの頃は人生の中でもかなりしんどかった。

何よりつらかったのは、「これから自分はどうすればいいのか」が分からなかったことだと思う。

私は昔から、努力できる人間に憧れていた。何かに打ち込んで、少しずつ成長して、自分の力で人生を前に進めていく。そういう生き方をしたいという気持ちはあった。ところが、気持ちはあっても何をすればいいのか分からない。

資格の勉強をしてみても続かなかったり、就職しようとしてもうまくいかなかったりする。

「頑張りたいのに頑張れない」というより、どこへ向かって、どう頑張ればいいのかさえ見えていなかった。

努力することを避けていたわけではない。努力の対象も、方向も、やり方も分からなかったのだと思う。

だから時間が経つことが怖かった。
一日、一週間、一か月と過ぎていくたびに、自分だけが同じ場所に残されているような感覚がある。

今より自由な時間はあったはずなのに、心の中には焦りがあったし、「このままで大丈夫なのか」という不安も消えなかった。

何もしなければ楽になれると思っていたのに、実際には、前へ進めていない感覚の方がずっと苦しかった。今になって思えば、私が欲しかったのは「努力しなくていい人生」ではなかったのだと思う。

自分なりに進む方向を決めて、「少しは前に進めた」と感じられる人生だった。
ただ、この頃の私はまだ、その進み方を知らなかった。

努力できる人間になりたかった。でも、ある日突然変わったわけじゃない

努力できる人間への憧れの原点にいるのが、中村俊輔というサッカー選手だ。

中学生の頃からずっと大ファンで、現役を引退したあとも尊敬している。引退試合も大阪から横浜まで見に行った。好きだったのはプレーだけではない。数多くの挫折や、年齢を重ねて身体能力やカテゴリーが下がっても、常に自分を高めようとする姿勢そのものに惹かれていた。

「自分も、ああいうふうにコツコツ努力できる人間になりたい。」

そういう思いは昔からあった。

大学時代にはシスアドの資格勉強をしたこともある。結局、資格は取れなかったけれど、「楽して一発逆転したい」と考えるタイプではなかったと思う。ただ、憧れていることと、自分が実際にできることは別だった。

やろうと思って始めても続かない。頑張りたい気持ちはあるのに、いつの間にか元に戻っている。そのたびに「自分には継続力がないのかもしれない」と感じていた。

そんな私も、今では筋トレやブログなど、昔なら続かなかったようなことを長く続けられるようになった。

ただ、「これをきっかけに自分は変わった」と言えるような、分かりやすい転機があったわけではない。

人が変わっていく過程は、漫画やドラマのようにきれいなものではないのだと思う。

何か一つの出来事があって、翌日から別人のように努力できるようになったわけではなかった。

少しやって、続かなかったこともある。別のことを試して、またやめたこともある。その中で、自分に合うやり方を見つけたり、小さな成功体験が残ったりする。

そうした積み重ねの中で、少しずつ自分自身の見方も変わっていった。

私の場合、その変化を実感し始めたきっかけの一つがランニングだった。20代の頃から身体の慢性的な疲労が抜けず、このままではまずいと思って走り始めた。学生時代にもランニングに挑戦したことはあったが、そのときは続かなかった。

ところが今度は違った。

Apple WatchとiPhoneで走った距離や時間が残る。昨日より少し長く走れたことも分かる。ゲームで経験値が増えていくように、自分がやったことが数字として蓄積されていった。欲張って長い距離を走らなくてもいい。短くても、とりあえず走れば記録は残る。

10kmを1時間7分18秒で走ったランニング記録のスクリーンショッ
当時のランニング記録。こうして数字が残ることも、続ける楽しさの一つだった。

走ったあとは達成感があったし、眠りやすくなったり、身体の調子が少し良くなったりする実感もあった。

どれか一つが決定打だったわけではない。小さな理由がいくつも重なって、気づけばランニングは一年ほど続いていた。その頃になって、ふと思った。

「今なら、筋トレも続けられるんじゃないか?」

昔なら、あまり持てなかった感覚だった。

継続するために私が意識してきた「小さく始める」「完璧を求めない」といった考え方は、こちらの記事で詳しくまとめています。→三日坊主にならないコツ7選

自信があったから続いたんじゃない。続いたことが自信になった

ランニングが一年ほど続いた頃、「これはもう習慣になったな」と思えるようになった。

学生時代には続かなかったことが、今度は一年続いている。これは自分の中で確かな自信になっていた。

そして、先ほどの「今の自分なら筋トレも続けられるんじゃないか」という感覚につながっていく。

それまでは、何かを始めるときに「どうせまた続かないかもしれない」という気持ちがどこかにあった。でも、一年間走り続けたという事実が、その見方を少し変えてくれた。自信があったからランニングを続けられたわけではない。

続けられたという事実が、自信になったのかもしれない。

そこから筋トレを始め、今では朝早く起きてジムへ行ったり、ブログを書く時間を作ったりすることも、以前よりできるようになった。すべてが途切れずに続いているわけではない。

体調を崩して一週間ほど運動できないこともある。そんなときは今でも、「ちゃんと戻れるかな」と少し不安になる。

それでも、体調が戻ればまたジムへ行っている。中断しても戻れた経験が増えるほど、「またやれる」という感覚も残っていく。意志がある日突然強くなったわけではない。

短くても走った。気乗りしなくても少しだけやった。中断しても、また戻った。そういう小さな事実が積み重なって、「自分は続けられない人間だ」という昔の自己認識を少しずつ塗り替えていったのだと思う。

昔の私は、努力できる人間になりたいと思っていた。今でも、自分を特別な努力家だとは思っていない。

ただ、昔の自分が今の生活を見たら、「俺、結構頑張れるようになったな」と思うはずだ。

その感覚が、今の自分に対する自信の一部になっている。

努力は今でも普通にだるい。それでもやる理由

休日の朝にジムへ行くか迷っている男性

ここまで書くと、今の私は毎日それほど苦もなく努力できているように見えるかもしれない。

そんなことはない。

導入で触れた休日もそうだった。

前日は妻と子どもが帰省していて、その日は朝から一人。いつもの休日なら子どもの送り迎えがあるので、「この時間までにはジムを終わらせないと」という締め切りが自然にできる。

ところが、その日は一日ほぼ自由だった。

急ぐ理由がないぶん、「もう少しゆっくりしてから行くか」「今日は別に行かなくてもいいんじゃないか」と、だんだん腰が重くなっていった。

筋トレを何年続けても、こんな日は普通にある。

それでも結局、私はジムへ行った。

理由は単純で、努力することの痛みより、努力しなかったときに残る痛みの方が、自分にとっては大きいと分かっているからだ。

ジムへ行けば、トレーニング中はしんどい。

でも終わってしまえば、「今日もやった」という感覚が残る。

逆に、行くつもりだったのに「だるいな」「どうしようかな」と悩み続け、結局行かなかった日はどうなるか。

私の場合、その迷っている時間だけで一時間、二時間と過ぎてしまう。

そして最後には、ジムへ行かなかったこと以上に、「あれだけ時間があったのに何をしていたんだ」という後悔が残る。

だから、気乗りしない日にまで完璧を求める必要はないと思っている。

いつもの重量が上がらなくてもいい。
短時間で切り上げてもいい。

絶不調だったとしても、「最低限はやった」と思えるかどうかで、自分に対する見方は変わってくる。これは筋トレだけの話ではない。

ブログを書くのも、朝早く起きるのも、何かを勉強するのも同じだ。調子のいい日に頑張るのは、それほど難しくない。

「今日はやりたくない」と思った日に、それでも少しだけ手をつけられるか。

そういう日の積み重ねは、自分が思っている以上に残る。

一回やらなかったからといって、すべてが台無しになるわけではない。体調が悪いなら休めばいいし、疲れているなら思い切って休む日も必要だ。

それでも、自分で「今日はやる」と決めた日に少しでも動けると、「今日は最低限やれた」という事実が残る。

昔の私は、努力というものを「キツイことを我慢して続ける行為」だと思っていたところがあった。

今は少し違う。

キツさがなくなったわけではない。

ただ、その先に残る達成感と、何もしなかったときに残る後悔。その両方を何度も経験して、どちらを選んだ方が自分にとって楽なのかを知っただけなのだと思う。

今の少しの面倒が、未来の自分を助ける。この感覚は、筋トレと資産形成を続ける中でも強く感じている。

「楽をする」と「楽に生きる」は、たぶん違う

ここまで書くと、「結局、休まず頑張り続けた方がいい」という話に見えるかもしれない。

でも、私はそうは思っていない。

たとえば前日の時点で、「明日は完全に休む日にしよう」と決めて、映画を観たりゲームをしたり、好きなことだけして一日を過ごす。

それなら何も問題はない。

むしろ、長い人生の中ではそういう日も必要だと思う。

自分の中で違うのは、「休むと決めた日」と「やるつもりだったのに、結局やらなかった日」だ。

見た目だけなら、どちらもジムへ行かず、家でゆっくり過ごした一日かもしれない。

でも、後味はまるで違う。

最初から休むと決めていたなら、その時間を素直に楽しめる。

一方で、「今日はジムへ行こう」と思っていたのに、だるさに負けて決めきれないまま時間だけが過ぎ、結局行かなかった日は、「何もできなかった」という感覚が残る。

私にとって大事なのは、休んだか、努力したかではない。自分で決めた一日を、自分なりに過ごせたかどうかだ。

子どもが生まれてからは、自由に使える時間が以前より減った。だからこそ、朝にジムへ行く。ブログなどの作業を進める。午後は映画やゲームを楽しむ。家族と過ごす。

5〜6畳の個室に設置した映画とゲーム用のホームシアター
やることをやったあとは、映画やゲームを楽しむ。こういう時間も含めて、自分で一日を使いたい。

何となく一日を過ごしていると、本当に何もできないまま休日が終わってしまうから、自分で時間の使い方を考えるようになった。

昔より忙しくなったし、やることも増えた。それでも、以前より今の方が人生は楽だと感じている。

努力が楽しいことばかりだからではない。

筋トレはしんどいし、早起きしたくない朝もある。ブログを書く気になれない日もある。

それでも、自分が進みたいと思った方向へ少しでも進めると、「自分の人生を自分で動かしている」という感覚が残る。

逆に、何もしなくていい時間がいくらあっても、頑張りたいのに頑張れないまま時間だけが過ぎていくのは、私にとっては苦しかった。

昔の私は、努力する人生はしんどくて、楽をして生きる方が幸せなのだと思っていた。

今は少し違う。

楽をすることと、楽に生きることは、たぶん同じではない。毎日限界まで頑張る必要はないし、休む日があってもいい。

それでも、自分で決めたことを少しずつ積み重ね、「今日も自分なりにやれた」と思える日が増えていく。

私にとっては、そんな人生の方がずっと楽なのだと思う。

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